Making of Recovery TA [7] -- テストプレイヤーの効用
FF12リカバリーTAのときは、これまでの問題作成の経緯やデータの内容を一切知らない人をつれてきて、ある程度形になったデータを使って問題を実際に解いてもらい、それをレビューするということを行ないました。このテストプレイヤーに白羽の矢が立ったのがゲー研のイリアス君。RTAに慣れており、DQ5リカバリーTAではプレイヤーで参加経験があり、かつFF12リカバリーTAではプレイヤーではないという点でお願いしました。ただFF12プレイ経験がなかったのでテストプレイまでにある程度遊んできてほしいということもお願いしました。すると、とりあえず1周クリアしてきてくれて、それでテストプレイをしてみたのですが…。
テストプレイをやると、問題が冗長すぎたりしないかということや、実際にやってみたらあまり面白くなさそうだとか面白そうだとかは感覚としてある程度わかります。しかし適切な時間設定や、このままでは問題が難しすぎるのではないかということ、いろいろありうる問題の多様な解法についてはやってもいまいちつかめません。
急なお願いでイリアス君にFF12をやってもらったので、とくにクリアに必要ない要素が絡む問題に関してはまったく勘が働かなかったようで、その意味でいろいろと無理の多いテストプレイを企画してしまったなと感じました。
テストプレイの具体的な収穫としては、
- 第2問のクリア条件は当初「最強の矛・盾」の取得だったのですが盾はやってみると冗長すぎたのでカットしたこと
- そしてこれをカットしたとたんに問題がひどく簡単になってしまうので矛だけとるという設定でより厳しいデータを作ろう、という方針が決定したこと
- 他各問題のLPやギルや持たせるアイテム、データをロードしたときに立ってる地点など細かい点をいくつか決定
などがあり、まったく無駄だったわけではありません。シンキングタイムや制限時間もテストプレイではいまいち目安がつかみづらかったとはいえ、この時点で仮決定しました。
問題の難易度、制限時間設定については本番が終わってからも結構つっこまれたポイントでした。また3月のDQ5のときも同じような問題に直面していましたね。リカバリーTAの問題作成は「既存のゲームを使って新しいゲームを作る」ようなところがあると思っており、ゲームバランス設定の難しさに問題作成班も直面しているのだということができると思います。
やはり1度テストプレイをやったくらいで得られるものは多いとは言えず、問題およびFF12をちゃんと理解してる人の脳内シミュレーションや実際にやってみてどう思うかなどの意見をちゃんと集約して反映させることを繰り返しやる、地道な過程が必要なのかもしれません。問題を熟成させる期間というのかな…そういうのが必要なのかも。
さて、計画的にはテストプレイ時点のデータで「ある程度完成」だったはずですがやはりそうはいかず、11月、本番まで残り少ない時間でかなり問題データに細かい変更を加えて、結果的にかなり変わった問題もありました。次回はその話を。
Making of Recovery TA -- Interlude
盛大に放置しててすみません。5ヶ月ぶりくらいの続編です。続きを読みたいというありがたいお言葉を直接頂いたので久々に書こうという気になりました。
ブランクがあるので、ここまでのエントリをおさらい。といっても過去の記事にリンク貼るだけですが…。時間のある方は改めてお読みください。
- Making of Recovery TA part 1(リカバリーTAの人員集め)
- Making of Recovery TA part 2(問題のアイデア出し)
- Making of Recovery TA part 3(出てきた問題アイデアの検討)
- Making of Recovery TA part 4(出す問題の決定、そしてデータ作成の前に)
- Making of Recovery TA part 5(リカバリーTAの問題をリカバリーする)
- Making of Recovery TA part 6(問題データのチェック)
エントリを改めて、続きの話をしたいと思います。
RTAの表現形式に関する雑感
文書の形でレポート公開したり、リファレンスを示したりするのはRTAをやって改善しようという人のための利便のためという側面はありますよね。
あるいは、RTAの歴史をまとめようとする人のための利便かもしれない。いずれにしろ蓄積されて、共有されるものが財産であるという。
そこで情報処理の効率を高めるため、文書の形にまとまっているというだけでなく、読みやすく整理されていなければいけない。アカデミックな文書がフォーマットに厳格なのはそうした価値を尊重しているからのはず。
しかし一方で公開されたものを読んで楽しむという人がいるわけで、というかやり込みの「お客さん」を考えるとそれが大半なわけで。そうした層を考えたとき、文書の書かれ方も違ったものになってくるし、あるいは動画などの別メディアがプレゼンテーションとして面白ければ、そっちに表現が移行していくことになる。
ここら辺は、音楽における楽譜出版と録音物との関係に似ているかもしれません。録音がなかったころは音楽を広く公表する手段は楽譜出版でした。今はそうではありません。むしろ楽譜が世に出てない音楽がほとんどで、そうした音楽を分析するには耳に頼るしかない。その音楽が、誰の影響を受けて作られたか、それは語られない限り聴いて推測するしかない。
その辺、アカデミックな世界をお手本にした流儀とは大きな隔たりがあります。どちらがいいかを決めようとすれば衝突が起きるのは当たり前だし、流儀の異なる方に自分の流儀を押し付ければ反発が起きるのも当たり前です。
やり込みに特別な権威があるわけではなく、やり込みを楽しむ人にやり込み人口拡大は支えられていると思うので、「面白いメディア」が強いのは自然です。ですからRTAも動画を見て、やりたい人はそれを見て自分なりに分析して…というふうになっていくのかもしれません。レポートに現れないプレイングの腕とかもあるから、実際に見ることでしか得られない情報もありますよね。ここら辺も録音物と楽譜の関係によく似ています。
ゲーム研究会的には、音楽で言えば「ライブ」に相当するRTA大会をやるとともに、たいていそれらの事後レポートをコミックマーケットで売る会誌に載せて販売しています。
アカデミックな流儀の良さを信奉するのであれば、レポートのフォーマットをちゃんと決めて、それに則ってレポートを公開していくという流儀を、そちらの方がいいと信じる人が実践していって広めていくしかないように思えます。その流儀が結果的にすごい作品を生み出して、その流儀を尊重して動画配信などで面白いプレゼンもできたとすれば、その流儀の価値が認知されていく…そんな感じなのだと思います。
それか、レポートが文芸として成り立つ…つまり読んで面白いレポートを残すというもう一つの道もあるかも。「読み物」として優れたやり込み作品を残す例は、極限攻略研究会の一部の本などをはじめいくつか私も知ってます。が、そうした才能(例えば木村昌弘さんとか…)はだいぶ貴重ですので、そちらの道が定着することはない気がします…。
これから大学に入学する新入生のためにならない話
先輩ってなにでてきてるの?おせっかい 自慢 それに自分にしか通用しない体験談 そんなこんなでできてるわ。
3月10日は東大をはじめとする国公立大学前期試験の合格発表でした。晴れて合格された方々、本当におめでとうございます。残念な結果に終わってしまった方、どうか落ち込まず前向きに。
このエントリを書こうと思ったのはこれから大学に入学する新入生のために - かねどーのブログを読み、自分にも思うところがあるのでただ書いてみたいと思ったからであって、この春から大学に入学される方に言いたいことがあるからというわけではないのです。読んでいただけると嬉しいですが、どうせ大事なことは身を以て知るしかないので読まなくたって何の問題もありません。長いし。
「終わりよければすべてよし」と言います。使い古された言葉ですが、後付けで自分のやってきたことを納得するという意味では一理ある言葉のように思います。大学生活の終わりは卒論書く(あるいは卒業研究する)ことです。つまりいい卒業研究ができればよい。ではいいとはなんでしょうか。卒論の段階でプロの研究者も認める高度な内容とかはまずあり得ないことだと思っていいと思います。この時点で「よさ」の基準をそういう水準に持っていくのは早とちり。プロ研究者になるにはそこからさらに標準的には5年のトレーニングが少なくとも必要とされているのですから、そのことを悪く感じる必要などない。ですから、この場合のよいとは自分が納得できるという意味だと思って話を先に進めたいと思います。
自分が納得するっていうのは、自分が居場所を与えられ、そこでそれなりにがんばったという感覚を持てるということだと思うのです。もっと言えば、自分が達成できそうな自分ならではの目標を立てて、それを達成する。求められる結果を出すのに努力は必ずしも必要ではありませんが、自分の納得のためには努力は必要かと思います。ここで居場所というのが研究室だったりゼミだったりするわけですね。
実は大学が学生に向けて巧妙にしかけた罠は、何もしなくても自動的にこうした居場所は手に入るってところなのです。何もしないで居場所が与えられると、そこにいるのが申し訳ない気持ちになるのです。なぜかというと研究室とかってみんな普段それぞれの仕事してるからです。一旦申し訳なくなると、いくら他の人が大丈夫だと言っても嘘くさく聞こえ、ますます自分で自分を追いつめるようになる。そんな状態では「納得して大学生活を終えよう」なんてポジティブな気持ちになんて到底なれません。まわりの人が優しければ優しいほど、仲間と顔をあわせたくなくなって、大学に行かなくなる。チェックメイトです。なんて恐ろしいのでしょう。
つまり、これを回避するために自分がここにいて大丈夫だと思える程度には勉強しなくてはいけないのですね。勉強しなくてもそういうパターンに陥らないし、まわりの人から怪訝な目で見られても大丈夫なだけの強靭なメンタリティをお持ちの方なら別かもしれません。あくまで気持ちの問題です。もしいくらがんばってもそう思えないなら、これからの円滑な生活のためには自分のメンタリティについて深く見つめ直す必要があるかもしれません。
ついでに言っておきたいことが。単位取得や卒業の条件を厳しくすればいいとかそういう議論がたまにありますが、それは決定できる立場にいる人、つまり教育をする側の責任や矜持に関わることなのであって、あまり学生が気にすることはないと思います。たまに気にして自分を縛ってしまう学生いませんかね。いなければいいのですが。厳しかったら運が悪いくらいに思ってればいいんじゃないかなぁ。
ところで強靭なメンタリティと書きましたが、既に居場所があって、そこでがんばれば自分の望み通りの将来もちゃんと開ける、そういう自覚がある人なら、そこでがんばればよいと思います。許された自由な時間を、そういう場所を見つけるのに使うのもいいと思います。それぞれに与えられた自由な時間をああするのがいいだとかこうするのがいいだとかは余計なお世話だと思います。あえて言うなら時間の許す限り遊んで楽しむべきだと思いますよ。自由に遊んで、それで人とのつながりも生まれるんだとしたら、そこから可能性って最も広がる感じがしませんか。どんどん外にでようとか言いますけど、同意しかねる部分もあります。知らなくて損することってあるかもしれないけど、自分が積極的になれることって自分の望みと関わってたりしませんか。自分がすでに出会っていていいなと思っているそれを時間をかけて大事にするってことだって価値があります。そうして広い意味で深いオタクにならないと出てこないすばらしい表現って絶対あるんです。
理想的にはそう思ってるのですが、自分の好きなタイミングじゃなくてみんな一斉に「就活」がやってくるので、まあ実際には将来のこととか早いうちに考えておかないといけない。でも、こっちが望まなくても研究室配属などやってくるので、実はあらかじめちゃんと考えておかないといけないのは同じことなのですね。「研究」も一つの道ですから、そこは同列に考えるのが良いんじゃないでしょうか。器用に行きたいなら早め早めで。
でもまあ考えておかないといけないといったって、考えておかなきゃどういうことになるか知っててあえてやらないのであれば別にいいと思いますし。知らなくて考えなくて痛い目見たとしてもしょうがないですよねー。自分の無知とか誰のせいにも出来ませんもんね。かなりひどいことになるかもしれませんがしょうがない。死ななきゃ大丈夫です。
ぐだぐだな乱文失礼いたしました。そんな感じです。
PS2DQ5リカバリーTA大会プレイヤー募集開始
プレイヤーの募集が始まりました。締め切りは3/11です。我こそはと思う方の参加をお待ちしております!
ところで明日はTGA主催のポケモンオフです。私は行きませんが、盛会祈念いたします。
一本道なゲーム。
後輩のブログなのですが、誰も他の人がつっこまないので…。
DQ2の例が挙げられているのですが、サマルトリアの王子を仲間にしない限り先に進めないという、イベント進行をフラグで管理するやり方があったとして、そこにたどり着くまでなにしてもいい(例えば、ムーンペタの方に行こうとして足止めされてもいい)ため「自由度」があるっていうのは、「自由度」という言葉の使い方としてはおかしいような気がします。
オーソドックスなRPGのイベント進行管理はこれと同じ形式を採用しているはずです。そうしたいろんなRPGでことごとくそれは「自由度」があるってことなのか?と考えてみれば、おかしいと思うのでは。とすると挙げられている不満は親切な設計(例えば次の目的がいつでも確認できるとか、目的をどこで満たせば良いのかもあらかじめ分かっているしいつでも確認可能、のような攻略をサポートする仕組み)がない、ということではないか思うのですが。DQ2であれば人がちらっと言ったことを自分で覚えておかなければいけませんし、その意味では親切ではないでしょう。
一方、DQ2では船を手に入れてからいくつかの重要なイベントを任意の順序でクリアして差し支えないという展開があります。確かにエリアごとの敵の強さに違いがあるので、これは順序の誘導ではありますが、しかし強制ではない。さらに、スルーしても問題のない箇所もある。サマルトリアの王子のときに比べれば、プレイヤーの側が順番を選択することができる。こういうのは「自由度」だと言えるでしょう。
ただ、最終的に行く先が決まっていても、時期によって寄り道してみたらセリフが違ったとか、そういう自由な行動を楽しくさせる仕掛けっていうのがゲームにはたくさんあります。寄り道を楽しむって言うのはゲームの楽しみ方の1つだと思うのですが。まあその辺は好みの問題ですね。
ところで、面白いなと思ったのはこのような混乱が起きるのは、「一本道」なゲームというときの「一本道」の意味に曖昧なところがあって、そこがひっかかるのだろうか、というところです。
私が思うに、いわゆる一本道と言われるゲームは、おそらく「寄り道」できる範囲の多寡や、寄り道のやり易さ、寄り道でなにか楽しいことが起きるかどうか、そうした要素を総合して寄り道のしがいがないが故に「一本道」だという風に言われているのだと思います。ここでいうシナリオの「自由度」は、それほど関係がない。
一本道の反対を思い浮かべて、普通のRPGのイベント進行管理手法を「自由度」だと解釈した(これはおそらく「寄り道」の価値を失念しているからなのかなと思います)。一方で「自由度」と普通言うとき、それはイベントをやるときの順序や選択の任意性にある。そこが混乱の元だったのかなと。