一本道なゲーム。

後輩のブログなのですが、誰も他の人がつっこまないので…。

DQ2の例が挙げられているのですが、サマルトリアの王子を仲間にしない限り先に進めないという、イベント進行をフラグで管理するやり方があったとして、そこにたどり着くまでなにしてもいい(例えば、ムーンペタの方に行こうとして足止めされてもいい)ため「自由度」があるっていうのは、「自由度」という言葉の使い方としてはおかしいような気がします。

オーソドックスなRPGのイベント進行管理はこれと同じ形式を採用しているはずです。そうしたいろんなRPGでことごとくそれは「自由度」があるってことなのか?と考えてみれば、おかしいと思うのでは。とすると挙げられている不満は親切な設計(例えば次の目的がいつでも確認できるとか、目的をどこで満たせば良いのかもあらかじめ分かっているしいつでも確認可能、のような攻略をサポートする仕組み)がない、ということではないか思うのですが。DQ2であれば人がちらっと言ったことを自分で覚えておかなければいけませんし、その意味では親切ではないでしょう。

一方、DQ2では船を手に入れてからいくつかの重要なイベントを任意の順序でクリアして差し支えないという展開があります。確かにエリアごとの敵の強さに違いがあるので、これは順序の誘導ではありますが、しかし強制ではない。さらに、スルーしても問題のない箇所もある。サマルトリアの王子のときに比べれば、プレイヤーの側が順番を選択することができる。こういうのは「自由度」だと言えるでしょう。

ただ、最終的に行く先が決まっていても、時期によって寄り道してみたらセリフが違ったとか、そういう自由な行動を楽しくさせる仕掛けっていうのがゲームにはたくさんあります。寄り道を楽しむって言うのはゲームの楽しみ方の1つだと思うのですが。まあその辺は好みの問題ですね。

ところで、面白いなと思ったのはこのような混乱が起きるのは、「一本道」なゲームというときの「一本道」の意味に曖昧なところがあって、そこがひっかかるのだろうか、というところです。

私が思うに、いわゆる一本道と言われるゲームは、おそらく「寄り道」できる範囲の多寡や、寄り道のやり易さ、寄り道でなにか楽しいことが起きるかどうか、そうした要素を総合して寄り道のしがいがないが故に「一本道」だという風に言われているのだと思います。ここでいうシナリオの「自由度」は、それほど関係がない。

一本道の反対を思い浮かべて、普通のRPGのイベント進行管理手法を「自由度」だと解釈した(これはおそらく「寄り道」の価値を失念しているからなのかなと思います)。一方で「自由度」と普通言うとき、それはイベントをやるときの順序や選択の任意性にある。そこが混乱の元だったのかなと。