「精神の背骨」は、本当は誰だって持っている

id:next49さんのエントリに関して久しぶりにキーボードを叩いてみたら文章が書けてしまったので公開することにする。こういうテーマって本当に私もよく悩むところなんですよねぇ。

こういうのは卒業研究のようなことに限らず、「自信がないことについては口を塞ぐ。判断を他者の責任において行なう。」というその人にとっては普遍的できわめて合理的な行動パターンなのだと私は思っている。そうすることがその人の「精神の背骨」なのである。あまりにも普段の生活でそれは合理的な行動パターンになっちゃっていて。このエントリでも傷つくことを怖れるな的な意見があるが、変に反論とかされて無駄なコストをつぎ込むのを回避しようと思うのはとても合理的でそれがダメだと言われてもそんなの信じないのが自然な反応ではないか。この手の引っ込み思案が実際に損につながるという可能性は否定しないがその程度の言説で刷り込まれた行動パターンをどうにかできるわけはない。「正解とか不正解とかない」なんて言われるのは想定済み、というかそんなのわかりきっている。

逆に言えば自信を持ってもらえればちゃんと自分の意見を言うようになるかもしれない。なにがあれば自信があるかというと、私なら、おそらく自分が自分のやっていることをちゃんとわかっているというのが大きく寄与するように思われる。けど理解度というのはかけた時間やモチベーションが左右する。ではモチベーションはどうすればいいかというと、自分がそれをやる価値があると信じている(疑いを持たない)状態が大事だと思う。そこで、これは意義のある研究なんだよと力説することも大事かもしれないが、研究テーマを与えられる(いくつか選択肢があってその中から選んだのだとしても同様)ということそれ自体、実は判断のアウトソーシングなわけで、これは自分が大事だと思って選んだんじゃないぞ、大事だと人は言うけど自分がどうしてこれを大事だと思えるのか自信が持てない、そんなところなのではないか。つまり与えられた研究テーマを自分のものにするところでハードルがあるのだというのが私の意見だ。

何が自分の判断に正当性を与えるのか?というのは突き詰めると実は答えのでない問題だろう。例えば、「なぜご飯を食べるのか?」→「それはお腹が空くからだ」→「お腹が空いたからといって何が悪い?」→「ずっと何も食べなければ私は死んでしまう」→「けど私が死んだところで…」→(以下エンドレス)といった感じ。ご飯を食べるのはほとんどの人にとって自明なので、「お腹が空くから」でストップすれば何も問題はないし正当性がある。もし、卒業研究で扱っている分野についての幅広い理解があれば、その範囲でもっともらしいストーリーを立て、正当性を考えることができるが、そうでなければ、自分のこれまでの経験に理由を求めるしかなくなる。すると研究の重要性の根拠が自分の実存にダイレクトに触れてしまって、それを主張するのは憚られるようになる。でも研究がいいか悪いかというところに自分の個人史なんて関係あるわけないのだよね。判断の根拠に乏しいところに意見を求められることで、触れちゃいけないところに触れてしまう回路が存在するのだ。

研究の重要性を実存と結びつけるのは間違いだが、研究をすること自体には実存をかけた主体的なコミットが必要という構造がある気がする。むずかしいところですね。迷う人にとって、研究の重要性を語る言葉=その分野を鳥瞰できる視点、それと研究にコミットする理由、両者をサポートすることが必要で、かつ両者を混同してはいけない。私はそのように考えました。