やりたいこと教

riywo氏は「大学に対する恨みつらみ」をストレートに、しかし誹謗や中傷にならないように書かれたほうがある種の真実に迫れたのではないかなぁ、と思う。「大学は学問をするところ」「大学院進学はよく考えて」「新卒採用はよくない」という個々の意見には同意できるが、じゃあ学問をするというのは一体どういうことなのか、修士課程というのはそもそもどんなことが目的になっているのか、という本質的な部分を直接語らず、「就職予備校」という対比を持ち出してそれで今挙げたような本質的な部分を照らそうとしているが、それは単純化のし過ぎだし、ライトのあて方が間違っているので本質を浮かび上がらすことはできず、必然的に議論も空虚になる。そのおかしさは

で指摘されているのでわたしは繰り返さない。でも気になるのは「やりたいこと」だ。

id:pigya氏の上記エントリでは「院はすでに一応暫定的に「やりたいこと」がある人が行くところだし、」とあり、一方riywo氏エントリでも「大学院に行くという選択肢は「やりたいこと」がある程度明確な人が行くべきだし,」とある。しかし、両者の「やりたいこと」というのはそのニュアンスが全然違うように見える。端的にいえば、riywo氏の「やりたいこと」には「人生を賭して」というprefixがついているような気がする。

「人生を賭してやりたいこと」をみつけるのに、「あれでもない、これでもない」ってやるのを世間一般では「自分探し」というらしい。男というのは誰しもそういう傾向はあると思う。現実を見ろといわれても、自分の限界なんて見たくもないし認めたくもない。なんというか、結局のところ男の評価軸なんて「強さ」くらいしかないじゃん、って誰しも心の底では気づいていながらそれを抑圧するんで、自分の限界なんか一番見るのが嫌なのだ。それがリアリストになれない理由。自虐は逆の傾向に見えるけど、やっぱりこれも「自分にできること」を片っ端から否定しているので、やはり同じように抑圧だというのは変わらない。だからといって、リア充から説教されるとかもってのほかすぎる(注:id:pigya氏がリア充集合の代表元と暗に言いたいわけではないのであしからず。増田とかで散見される意見を念頭に置いている)。神経逆撫で以外の何ものでもない。

ひきこもりというのは男性が多いらしい。社会に出るのを前にして人生を棒に振りかねないことをする現象というのは、「性」から生じる問題が重要な部分を占めている可能性大アリだとわたしは思っている。だから女をあてがって解決すればいいんだ、なんてことは間違っても言ってはいけなくて、そんな自分とどう向き合うかを真面目に考えるべき、考え方のよい筋道があるのかどうか、みんなで議論する対象になってもいいんじゃないか、そういうことをいいたいのですが。

閑話休題id:pigya氏が辛辣に書かれた部分

厳しい言い方をすれば、こういう考え方だと今後も社会人になってからうまくいくかどうか疑問である。いつも「ここではないどこか」「自分はもっとできるはずだ(環境さえよければ)」と言い続ける人生でいいのか?そうなろうとはしていないか?

というのは、もしわたしがいわれたとしたら、そんなことは自分の内面からの声として、すでに何百回も繰り返されていて耳タコだ、と思うに違いない。だからアドバイスとしては無効である。それを人からいわれればうざいと思うしかない。わかっていても、それを認められないという構造がある(そしてそのことにすら気づいている)。大抵のお説教というのはそのようにして受容される。自分の問題を解決するのに、目から鱗が落ちるようなお説教は聞いたためしがない。現実は見えてないのではなくて、見えているけど見ようとしてなくて、それを自分でもわかっていて、それがなぜか、どうしたら解決するのかと問うているので、「現実見ろよ」「甘えてんじゃねーよ」とストレートに言ったところで、確かにそうだけどそんなことじゃないんだよ、となるのが普通だ。そのような説教を聞かされるにつけ、あるいはそうした様子を未熟だとか弱さだとか指摘されるにつけ、無理解が生む言葉の暴力だと捉えられ、ますますへこむ。「甘えるな」と言われれば「きびしい社会じゃ生きていけないのでもう死にたいです」という思考を招く。別に自分を理解してほしいから人付き合いをするというのが人付き合いの全てではないが、やっぱり人に会いたくなくなってくる。およそこれが悪循環のシナリオであるとわたしは思っている。そして事態が増悪すればするほど、なんとかしなきゃともがくがゆえ、体のいい物語=幻想を求めるようになっていくのだと思う。

わたしは、個人の問題を抑圧して問題のまちがった「一般化」を試みるのはよくないと思うので、riywo氏のエントリについた一部の(ややネガティブな)ブクマコメントにスターをつけたり、id:pigya氏のエントリをブクマしたりしてそちらに肩入れする態度を表明するなどしたが、心情的にはriywo氏に共感するものである。わたしのすこし勝手な(わたしは妥当だと思っているけど)議論をエントリにぶちあてられて気分を害したとしたらもうしわけない。

でも、「やりたいこと」という言葉にはある種の呪いがかかっており、この言葉が幻想を幻想で塗り固めるきっかけになってしまい、逃避を促進する傾向にあるということや、功成り名を遂げた人(たいていマッチョです)が「やりたいことをみつけなさい」という言説をあちこちでバラまくがちょい危険なので注意すべきということは指摘しておきたい。日常的に、大抵の意味において「やりたいこと」とは「やってみたいこと」である。おそらく、「やってみたいこと」が大事業でそれをやる覚悟があるなら「人生を賭して」となるかもしれないが、「人生を賭すべきやりたいこと」がどっかにあってそれを見つけられるという風に考えるのが陥りやすい罠なのだと思う。あと、「人生を賭して」といっても人生は元々一つしかないんだからこの言葉にも注意したほうがいい。